お遍路ツー 2日目
ある物事に対する正しい行動が分からない状況において、ひとまず格好から取り組み始めることを
『形から入る』
と表現しますが、これは思っているよりもポジティブな意味合いではないようです。
意外なことに
『ぱっと見バレへんかったらええやろ。笑』
ぐらいの印象で受け取る方も多くいるそうです。
見てくれを取り繕った行動ではなく、行動の意義や本質に自ら気づき理解して取り込んでから初めて、意味のある行動ができるようになるのでしょう。
じゃあ形から入ることはただのパフォーマンスで意味はないのかと言うと、そういうわけではありません。
形から入ることは行動の本質を理解する助けになります。
例えば形から行動の意味を逆算することができます。
今までなんとなくやっていたルーティンや行動に対して、ある時突然
『なんでこれやってんねやろ』
と疑問に思う瞬間が訪れます。
その疑問を糸口にして一つひとつ本質に近づいていくことができればそれで良いと思います。
『いただきます』ってなんで言うん?
誰に対して?何に対して?何を頂いてんの?なんで手合わすん?
と、形から逆算して考えているうちにその本質に気付くことができるでしょう。
また、形を知っておくことは本質に気づいた時にそれを表現する絶好の手段になります。
何気なく生き物を食べている人がある時突然
『こいつも元々生きてたんやんな…親もおったやろう、子どももおったかもしれん…こいつを食べたせいで周りの仲間まで殺してしまうことになり(略)懺悔と感謝をして食べないとな』と、食べ物のありがたみを悟ったとします。
その後に
『じゃあなんて言おう…「この世の全ての食材に感謝を込めて…」』
なんて言い出すと おまえトリコかよ となります。
『いただきます』という短い一言を知っていればそれで丸く収まります。
『形から入る』
というのは、ネガティブな意味合いでも無く、かといってそれで十分な行動でもありません。形を通じて本質に気付く時までのモラトリアムなのです。
大事なのは本質にあります。
お疲れ様です という言い方は失礼にあたるか
収 の一画目はどちらなのか
役不足 はどちらの意味が正しいのか
何が正しいのかさえ分からないことは世の中に沢山ありますが、
一つひとつの行動における本質を常に気にかけていれば、いつかその答えが見つかると僕は思います。
で、2日目です。
作法について少しお話しします。
真言宗に縁もゆかりもないどころか、出発前日に祖母の三回忌(浄土宗)をしてきた僕は
体裁や格好に最大限コミットして形から入りました。
般若心経の本質ってなに。
思ったよりも進捗が悪く、2日目にして十六番までしか回れておりません。その原因は納経における作法の多さにあります。
1.門でお礼
2.手水
3.鐘を鳴らす
4.本堂でロウソクを灯す
5.本堂に線香を供える
6.本堂に納札を入れる
7.本堂にお賽銭を投げる
8.納経(開経偈」「般若心経」「御本尊真言」「光明真言」「大師宝号」「廻向文」。全部で5分前後読経)
9. 4〜8を大師堂で繰り返しもう一度
10. 納経帖に御朱印をもらう
11.門でお礼
初めはこの動作をこなすために1時間かかっていました。
今はだいぶ慣れてきて、20分ちょいで終わりますが、それでもなかなか思うようには進みません。
形を模して格好つけることに執心しています。般若心経もお坊さんみたいに読むことに全力を傾けています。
そのうちネテロみたいにならんかなぁ。
今日は昨日のように観光はあまりせず、訪れたのは一箇所だけでした。
大川原高原という場所です。
標高1000m近い山の頂上で、牛が放牧され、アジサイが綺麗に咲き誇っていると知り、第十二番焼山寺の後に向かうことにしました。
この道中、足場がドロドロの林道で、何回かこけそうになりました。
下道は晴れ渡っていましたが、標高が高くなるにつれて悪天候になり、頂上は霧がかかっていました。
これはこれで趣があるかも。
紫陽花も綺麗に咲いていました。
牛はいませんでした。
スリップして二回死にそうになりました。
ただ、道中綺麗な写真が何枚かとれました
その他の巡行は黒ペンの紛失を除きスムースに進むことができました。
明日で徳島を終わりにして、高知に向かえたらなと思います。
ここまで読んでくれてありがとうございました!それではまたあした